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旅のプロ、旅へ出る

震災より1年。レンタカーで東京から青森まで縦断


『道路に電信柱が立っているでしょう。それが津波でね、ポキッ、ポキッて順番に簡単に折れていくの。あんな光景、今迄見た事も無い。。』
 
  岩手県三陸沿岸の街、釜石市。
  私は某夫婦の、津波の為、高校の体育館に一時預かりをしていた荷物を某ビルの3階に運ぶ、引っ越し作業のボランティアをしていた。運ぶ先のビルは津波をまともに受けたらしく、1階、2階は1年経った今も未だ片付けきれて無い廃屋の様であり、エレベーターのドアはぶち破られている。その為、狭い螺旋階段を4、5人掛かりでソファやピアノ、棚などを持って上がった。
  3階の窓からは、ひっきりなしに通る車の往来とは裏腹に、大型施設以外、歯抜けになった街が寂しく見えた。三陸沿岸を襲った大津波は、小さな木造の家々を軽く押し流し、瓦礫を撤去した今、そのような場所に残っているのは家の土台だけである。

  ご夫婦はその街を見ながら語ってくれた。
『私達の家はここよりもっと海に近い所で、海から200m程の場所にあってね、地震が起きてその後に大津波警報が出たの。家は3階建だから海が見えるんだけど、潮が凄く引いていたのが見えて、直感で、あっ、これは2階迄は津波が来るなと思ったわ。津波がやってきて、家は3階の鉄筋だったから結果的には残ったけど、その時は怖くて怖くて、3階から屋上に上がって、更に広告塔があるんだけど、そこによじ登ったの。津波は一気に廻りの建物を飲み込んでね、あっという間に周りは、海、太平洋になったのよ。』

『お隣さんも3人亡くなって、そのうちまだ1人は見付かってないわ。釜石は地震から津波が来るまで30~40分経ってたし、防災無線もよく聞こえなかったから。でもまさかね。亡くなった人は油断もあったと思うわよ。まさかここまでは来ないだろうって。明治や昭和の津波も凄かったって聞いてたけど、私達だって実際見た事無いしね。地震から時間があった事も原因だったかもしれない。。』

—三陸海岸大津波の現状を辿る—

  東日本大震災より1年。昨年3月末、6月中旬にボランティアに行って以来、足を運んでいなかったので、1年経ってもう一度北から順に見て、目に焼き付けておこう、そう思いたった、それが今回の旅のテーマだった。

  車で東京から東北道で青森の八戸迄一気に北上し、そこから三陸沿岸沿いを南下。途中、釜石、南三陸町でのボランティアを2日間挟み、計4日間で縦断。

  作家の吉村昭 著『三陸海岸 大津波』という本がある。(この本はお薦めです)
  過去、何度も津波に襲われて来た三陸沿岸の歴史、特に近代史に残る明治29年三陸大津波、昭和8年三陸大津波、昭和35年のチリ地震による三陸大津波の被害状況を中心にまとめられているが、そういった歴史があっての今回の大津波は、規模としては過去の大津波の更に3倍と言われており、被害状況は、悲しいかな、今迄のそれを上回る結果となってしまった。

  昨年、3月末、石巻に行った時は、信号は点かず、流された車や船があらゆる場所に引っかかっており、いつ開くとも解ら無いガソリンスタンドは大渋滞となし、泥かきや家の中、庭、道の掃除に追われていた。

 現在は、当時と比べれば、整頓されつつある。
  しかしながら、集めた瓦礫処理が一向に進んでおらず、復興の足かせになっている問題は連日ニュースでも取り上げられているが、いずれの海岸沿いの市町村でも、村一つ分の瓦礫がまるで壊された堤防の代役をしているかの様に、高く高く積み上げられていた。勿論それは一つでは無い。
  途中、岩手県東北部、野田村、田野畑村にも立ち寄ったが、先週の大雪で、まるで何も無い雪原の様に儚い、モノトーンな空虚な世界に見え、早朝だったとは言え、ひと気も無く、遮る建物が無い風が海から強く吹き付け、震災後の人々の苦労が偲ばれた。
 宮城の山元町や相馬・南相馬の海岸線は一般車両が未だ道が不通となっている所もあり、アスファルトがひんめくられたままの道はまだまだ先の長さを感じる事となったし、勿論南相馬より福島第一原発のその先は知るよしも無く、まだほとんどの人が知らない現実があると思うが、今はそこまでしか言えない。Photo

(瓦礫に雪が積もった野田村)

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(陸前高田漁港に積まれた瓦礫)

  正直、この街が、あの村がどうだったと言えば、きりがない。ただ実際に行って解る事は、想像を遥かに超える津波であった事は言う迄もなく、かなりの高台であるのに関わらず、家が流されてしまったのかと思うと「えっ、こんなに高いところ迄?こんなに海から離れているのに?」と自然の脅威をまざまざと見せ付けられた事を感じざるおえない。津波というのは映画で見る様な高い白波がざっぶんと来る訳では無く、海水が元々の海岸線より内陸部に入り込み、海岸沿いの街そのものが海の一部となる。正に釜石でご夫婦が語られた様に、突然、海になってしまう、という事が現実に起こる、それが津波なのではないかと私は考えた。

 また、情報に流され易い現代において、多くのメディアが取り上げた市街と地方村にもまた注目度の隔たりがあるのではとも感じた。岩手や宮城では、三陸特有の入り組んだリアス式海岸には、市街地より峠を一つ越える毎に、小さな港を従えた集落が幾つもある。小さい集落で30軒前後から最寄り駅があり200軒近くある地区まで大小様々。しかしそういった小さい集落や地区は、自然の入り組んだ地形により、家屋がある僅かな平野部を大津波は走り、高台にある4.5軒残し、それ以外全て流されてしまった村は相当数に上る。亡くなられた方の数やこぼれ話でどうしても報道も偏りがちであり、被災者以外の方の援助先も偏ってしまうのでは無いか、とも思った。
 いずれにしても未だ市町村の家を建てる建設場所が決まらず、行き場を無くし細々と暮らしている方が多くいるのは、高台に建つかなりの仮設住宅の数からも想像出来た。実際、ボランティアで若夫婦が仮設から引っ越しを手伝った際、同じ仮設に住んでいるのだろう、お婆さんが「行ける所があって良いわねぇ…。」とボソリ呟いて横を通り過ぎて行ったが、実際その若夫婦が引っ越した場所は、仮設より、また別の仮設への引っ越しだった事は、何処か寂しさを感じた。Photo_3

(ひょっこりひょうたん島のモデルになった大槌町の蓬莱島は健在)Photo_10

(半年前は無かった山田町の沢山の養殖用いかだ)

—復興の光は少しずつ少しずつ—

 さて、話を変えて、明るい話題と言えば、昨年より市や中規模の街や村では仮設商店街や仮設居酒屋が多く見られる様になった。普通の売店から、お土産や各町の応援グッズが売られていたりと、様々。各会社が東北復興ツアーで来ている旅行者や東北内陸各地から来るお客様で盛り上がっているという。また、現地の方の話と会話が出来るというのも良い事であるが、それは外部の方の話の事で、実際、仮設等よりスーパー代わりに食材等を買いに来ている地元の方が多く、春が近付いている事で客足も次第に増えてきたと某店の方は教えてくれた。Photo_5

(宮古と繋がった小本駅に電車が。仮設商店街が前には出来ていた)Photo_8

(南三陸町歌津地区。のぼりが何処かほっとさせる)

 その他に、仮店舗を立ち上げた方もいる。
 石巻市雄勝地区の名産・雄勝硯(すずり=習字などで使うすずりの事)を製作・販売している遠藤弘之さん。石巻より女川を抜け、南三陸方面へ一旦北上した時に、営業中の赤いのぼり旗がひらめいていた。入り組んだ地形の雄勝地区もまた20m近いの津波を受け、街はほぼ瓦礫の山と化し、家はほとんど残っていなかった。仮店舗を開いた遠藤さんの店舗や、その上の高台にあった実家や硯の倉庫も津波で流されていたが、車で通りかかる人や地元の人を対象に仮設店舗で店を再開していた。
 私が訪れた数日前、数人のボランティアの3日がかりの捜索により、倉庫や店舗などにあった硯が、街の中心部より約160個程見付けられたそうだ。勿論割れている物や、傷ついた物は多かったらしいが、それをまた磨いて、少しだけ店舗に並んでいた。

 雄勝地区は震災前4,000人の住民がいたそうだが、漁業中心の町では無い為、里離れが多いらしく、多くは仮設住宅を出て、石巻市街や仙台等へ引っ越して行ったとの事。また、仮設も山向こうの高台にある為、人気は少ない。それでも同じ場所に店を再開したのは、この地に想いがあっての事なのだろう。詳しくは聞かなかったが、頑張って欲しいと思う。

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(石巻雄勝地区の遠藤すずり店にて)

—東北を訪れて—

今回、東北太平洋沿岸部をひた走ったが、正直、復興にはまだまだ先は長く、マンパワーはまだまだ必要かと感じた。

先にも書いたが、メディアに取り上げられているのはほんの僅かでしかなく、TVのその先は何処か違う世界に思えているのではなかろうか。少なくとも私はそう感じる。今、被災地は政策やお金、仕事、住まい、福島原発の問題が進展しない中にあるが、それ以上に、被災者の一人ひとりに震災話があり、また、この現実に直面しながら生きている今を、私は少しばかり感じる事が出来たと思う。
だから、私としては、出来る事なら、皆に東北を訪れて、津波の後を見たり、仮設の暮らす人々を見たり、その場に行き、見聞する事は大切な事だと思い、お薦めしたい。

東北は、私が住んでいる首都圏からしても正直遠い。
遠いが、現地を見なければ、見えてこない物は多分にある。
百聞は一見に如かずであり、その先に自分の出来る事や伝える事が見えてくるのでは無いか、私はこの旅行でそれを強く感じた。

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