まだ見ぬ旅の驚きを発見「旅のプロ、旅へ出る」 トクー!には、他にない特別なボーナスがあります。ボーナス支給条件はただ一つ、どこにも紹介されていない旅をして、皆様に紹介すること。
旅のプロ、旅へ出る

地球の裏側 天空都市『マチュピチュ』へ


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①、天空都市へ
②、日本脱出
③、ペルーに降り立つ
④、世界遺産クスコ旧市街
⑤、ペルーレイル
⑥、マチュピチュ村でダウン
⑦、マチュピチュ
⑧ 天を仰ぎ見る

あとがき

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┗① 天空都市へ ┛ 

  午前6時。開門を待ちわびた者達が、揚々と細い道を駆け上がって行く。
  気温は約10度弱。その先にあるまだ見ぬ遺跡に高揚してか、
私も含め、皆の吐息がいつもより白さを増して空に舞い上がっていた。

  入門ゲートを潜り、足下を見ながらゆっくりと歩いていたが、
そのうちに先の方から、軽く感嘆の声が聞こえて来た。
いよいよだなと、自然と私も足早となる。
  石段を登り、声のする方向へ。ようやく目の前の視界が開けた時、それは現れた。
 
 山から続く尾根が少し開けた場所、周囲は切り落ち、そしてまた山が這い上がる。
幽谷より勢いよく上っていた霧が、幻想的に包み込み、その光景に私も思わず、
『おおっ』と声をあげてしまった。

 少し空が明るくなると霧が晴れ、街が空を指すように佇んでいた。
それが「天空都市」と呼ばれるに相応しい『マチュピチュ遺跡』であった。

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┗② 日本脱出 ┛

 夕方に成田より出発し、ロサンゼルスへ向かう。マチュピチュのあるペルーへは、
日本より直行便が飛んでいない為、ロスでの乗換が必要だ。3か月近く前から
マチュピチュへ行く事を決めていたのに、チケットを取ったのは、出発僅か1週間前。
その1週間後にはもう、地球の裏側へ向かうというのは、不思議な気持ちだった。

 アメリカン航空でロスまではおよそ9時間。更にランペルー航空に乗換え、
ペルーの首都リマへは8時間掛かる。更にリマよりマチュピチュへ拠点となる街の
クスコまで、ランペルー国内線で約1時間半。
 リマと日本の時差は14時間。日付変更線を越えて1日戻る為、日付では、
日本出発は22日の夕方4時でクスコには翌日23日の朝6時に到着するものの、
乗換の待ち時間を含めると実際は27時間は掛かっている。

 飛行機の長旅は、テイクオフと、気圧の悪い時のガタガタと揺れる時以外は、
特に苦にはならない。何せ、小さな窓から外を見て、空と雲が綺麗だなと思った後は、
綺麗なスチュワーデスをチェックし、サービスのお酒を飲みまくり、そして寝るだけ、
と思っていたから。。。
 しかしながら、若干ボロが来ている機体のアメリカン航空の席の狭さと、
アメリカサイズの年配スチュワーデスと、考えてもいなかったアルコール有料、
という事には、少々ガッカリした。
 仕方なく、「地球の歩き方」をもう一度読み直していたが、
結局、夕飯時以外は、ビデオを少し見ただけで寝てしまった。

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 朝10時前、ロスに到着。
 アメリカでは必ず乗換時もイミグレーションを通り、一旦入国をして、
荷物をピックアップしなければならない。更に最近導入されたエスタ(ESTA)を
事前に申請しておかなければ、乗換さえも出来ないというある意味面倒臭い国である。
テロ防止で要注意人物を事前にチェックしようとする試みだろうが、
ESTAが$14掛かるのは少し納得がいかない。
 イミグレーションでは指紋と顔写真を撮られる訳で、アメリカ国内でそうそう
悪い事は出来ない気持ちにさせられる。

 初めてのアメリカだったが、往路は3時間程しか待ち時間が無いので、
少し外の空気を吸うぐらいで終わった。
 
 空港内を歩いていると、JALのファーストクラスカウンターに
見た事のある人がいると思ったら、テニス界の妖精、シャラポワが
空港従業員と写真を撮っていた。
(ちなみにシャラポワは翌日の東レ・パンパシでクルム伊達に
 まさかの金星を献上してしまう。時差ボケが原因かもしれない)
また、全く違うグループだが、その横のカウンターには、
競泳の北島、格闘技の吉田の両オリンピック金メダリストがおり、
簡単に有名人に出会える国だと、思ってしまった。

 昼13時20分。 リマに向けロスを出発。
 相当眠い。日本時間で言えば、早朝5時。即寝てしまう。

 食事も半分寝呆けていたが、美味しかった。ランペルーはアメリカンに比べると
機体も綺麗で素晴らしい。スチュワーデスは半分男だったが、感じは良かったので、
ランペルーを中々乗る事は無いだろうが、お薦めする航空会社だ。
 途中フロリダ半島が見えていたようだが、余り覚えていない。ペルーは近い。

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┗③ ペルーに降り立つ ┛

 ペルーの首都リマ到着は現地時間の夜0時前だった。
ここからは早朝5時のクスコ行まで空港内で過ごす事になる。

アジアではないが、先進国と言えない国の空港は、先進国と比べ、
何処か異様な雰囲気に包まれている。
荷物をピックアップして空港内に入ると、タクシーの客引きとの攻防が始まる。
ペルーはスペイン語であるから、はっきり言って何を言ってるのか解らないが、
声を掛けてくる奴らの言ってる事はほとんど同じだ。

 ドルをペルーの通貨ソルに両替し($1=約2.8Soles)、珈琲でも買って
休憩しようとしていると、日本人の若い女性が1人うろちょろしていたので、
声を掛けた。彼女も東京から同じ飛行機だったようで、これからナスカに行き、
更に色々な遺跡を見て、ボリビアに少し入ってからマチュピチュに向かうとの事。
とにかく、高山病にならないように少しずつ高地へ上がっていくのだと言い、
私にも高山病予防の薬をくれた。
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 彼女と別れ、早朝5時の便でいよいよアンデス山脈を横切り、クスコへと向かう。
 リマは太平洋に近く標高は無いが、クスコはアンデス山脈の中にある街である。
標高は約3,800m。一気に富士山よりも高い場所へ飛ぶ事になる。
 飛行機からは白く雪に覆われたアンデスの山々と、茶色い不毛の大地に思わせる
ようなカラカラに乾いた大地が延々と続いていた。

 約1時間半。クスコ空港に到着。
 本日の宿に荷物を置く為に、空港からは市街地へ行かなければならない。
 空港内にいるタクシー(ぼったくりタクシーが多い)の声掛けには目もくれず、
リュックを担いで、空港の外に出た。街は全体的に日干し煉瓦の家が多いせいか、
茶色とオレンジ色を混ぜたような明るい色をしており、地震の多い日本ではまず
お目に掛かれない光景であり、いよいよ異国に来た気分は一気に高まった。

 クスコ空港の前の大通りにはバスが頻繁に走っていたが、
バスと言っても、中型のバン位の大きさにはみ出そうな位人が乗っている。
制服の子供達が多く見えたので、通学時間と重なっているのだろう。
バスの入口から半分身体を乗り出し、『どこどこ行きだ!』と大声を掛け、
客を呼び込む男達。バスの中に運賃箱は無い為、彼らが、運賃代を徴収する。
行先もバスには書いているが、声を上げて呼んでいるのは、文字を読めない人達が
多いからかもしれない。とにかく、私にはスペイン語はサッパリなので、
文字も読めなければ、何を叫ばれているのかも解らない。地図は読めるが、
満員バスだと、おいそれ地図を広げるのも厳しく、長旅で疲れた身体に無駄な体力を
使う訳にはいかない。何せここは3800m。空気も薄い。

 そういう訳で、バスは諦め、タクシーで行く事にした。
タクシーも普通の車が、タクシーであり、ほぼ無法状態。
車自体が、3台に2台の割合でタクシーなもんだから、バスより当然更に多い。
彼らは当然運転者一人な訳だから、運転席から目配せをするか、指を突き上げるか、
クラクションを鳴らすかで、客に乗車を促す。
 私は、少し離れた所まで歩き、申し訳無さそうに目配せして来た、気の弱そうな
男性のタクシーに乗った。強引に来る奴はボる奴らが多いからだ。
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 この旅行で私は一切ホテルを予約していなかった。
 多少は日本でホテルを調べたが、1人旅行であるからカッコつける必要は無く、
ネット等で予約出来るホテルもかなり割高だった為、とにかく清潔で安いのを
目指していた。時期的にオンシーズンとオフシーズンの狭間だったので、
ホテルは空いていると目論んでいたからだ。
 目指したホテルは、地球の歩き方で紹介されていた一番安いホテルを選んだ。
ペンション花田。日本人が経営する宿で、情報収集にも富んでいそうだった。
何より価格は1泊7$と破格。早朝到着だったが、オーナーも一通りの説明をしてくれ、
通された部屋はベッドが3つあるドミトリーだったが、客は私1人だった。

 ホテルには無料で飲めるコカ茶とマテ茶が置いてあった。
この旅で楽しみの1つであったのが、コカ茶だ。コカ茶の元である南米原産の
コカの葉は、麻薬のコカインの原料となり、日本では持ち込み自体が
禁止とされているものだが、コカ茶は高山病対策として、南米のアンデス地帯では
日常茶飯事に飲まれている。早速飲んでみたが、何とも苦く、砂糖を入れないと
余り飲めた味ではなく、私はその後、マテ茶に浮気をしていく事となった。

 高山病は、平地より一気に高地へ上がった時に病みやすいという。
更に無理に動いたりお酒を飲み過ぎたりすると高山病になりやすいそうだ。
クスコでは当然1日目は無理にしないように、というのが常識であったが、
翌朝にはクスコを発ち、マチュピチュへ向けて出発を予定していた為、
(マチュピチュの方がクスコより実は高度は低い。マチュピチュは約2,650m)、
私は常識論をかなぐり捨て、クスコの街を観光する事にした。

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┗④ 世界遺産 クスコ旧市街 ┛

 クスコの街は1200年代~1532年はインカ帝国の首都であった。
1533~34年、スペイン軍によってインカ帝国は滅ぼされ、スペインの統治下に入る。
インカ帝国時の精巧な石組の上にスペインは教会や修道院を建てていった。
 街は芝生や庭園、彫刻の噴水が美しいアルマス広場が中心で、
カテドラルやラ・コンパーニャ・デ・ヘスス教会、お土産、飲食店等が立ち並ぶ。
そこから道が四方八方に広がっている。ベンチが多く置かれている為もあり、
多くの観光客が寛いでおり、それを目当てに絵葉書や玩具等、物売りも多く賑やかだ。
夜中まで人通りが多いから、強盗等の危険値は低いが、スリや置き引きは多いので、
警官も常に目を光らせているので、最近は事件が少なくなってきているらしい。

 私の宿舎からアルマス広場まで5分位だったので、観光の拠点には良かった。
アルマス広場の東側と南側を占めるカテドラルやラ・コンパーニャ・デ・ヘスス教会は
とても巨大で、入口は狭いが、中に入ると大教会なら広さと、教会ならではの
落ち着く香りが漂う。
 十字架に張り付けられたキリストに向かって祈りを捧げる人々がポツポツと見えた。
ペルーは日本社会よりも宗教に対する関心は高く、スペイン統治の影響で
人口の約90%近くがカトリックだという。金曜日だったので、人は疎らだったが、
これが日曜日にもなると大教会に沢山の人が訪れるのだろう。
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 クスコの街が面白いのは、先にも述べたようにインカ帝国時の精巧な石組の上に
スペインが街組みをしていった事にある。だから足元はインカの名残が十分にあり、
主な道は石畳である。日本のように小さな石畳の道もあれば、一辺が50㎝位の
石がはめ込まれている道もある。だから車は悪路でも走り易いようタイヤの空気が
元々少し抜かれているようであり、細い石畳の坂道をガタガタ言わせながら、
滑るように下りてくるのは面白く、且つ若干滑ってこないかと恐怖感もあるのだ。

 散々廻って歩いた揚句、夜はビールをたっぷり飲んで、宿に帰った。
いよいよ、明日はマチュピチュへ向かうと思うと、早く明日になって欲しかったのだ。
しかし、事は上手くは走らなかった。

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┗⑤ ペルーレイル ┛

 朝起きて、少し頭が痛かったが、それでもマチュピチュへ向かうと思うと、
目覚めの気分は悪くなかった。意気揚々とホテルを出たのは朝6時前。
 マチュピチュ村へ向かうペルーレイル(PERURAIL)の出発駅、ポロイ(Poroy)駅は
クスコ郊外約20kmの方に位置にあり、アルモス広場よりタクシーで向かう。

 マチュピチュへ行くには、麓のマチュピチュ村へ列車(PERURAIL)で行くか、
又はマチュピチュへ続くインカ・トレイル(Inca Trail)を徒歩で歩くしか方法は無い。
それなら、当然、列車で行くのが当たり前で、歩くなんて馬鹿げてると思いがちかも
しれないが、とても人気のあるルートで、旧インカ道を、古代浪漫に想いを馳せ、
歩いて辿り着くというのは、登山や歩くのが好きな人等にはたまらなく魅力である。
 私も時間さえあれば、インカ・トレイルで行きたいと思っていたが、
航空券を1週間前に予約した私の言える立場では無い。何故か。

 そもそもインカ・トレイルは誰でも歩ける訳ではなく、
必ずガイドとポーター(荷物を運ぶ人)を付けなければならず、
且つ、旧インカ道の保存の為、一日の入山者は500人に制限されている。
だから、オンシーズンはインカ・トレイルは物凄く人気があり、
オンシーズンの予約は最低3カ月前に取らなければならない、というのが定説だ。
 ルートは3泊4日コースが主で、ポーター達が重い荷物を運んでくれるので、
基本的に歩くだけだが、最高地点を4,200mとし、途中で高山病にやられる人も
少なくないという。しかしながら、一生に一度しか行かないだろうマチュピチュ。
インカトレイルを歩けなかったのは、私には心残りだったというのは言うまでもない。

 さて、かと言って、列車で行くのも決して悪い訳ではない。
PERURAILは世界でも人気の登山鉄道で、ペルー国と外資系が資本を出し合っている為、
ペルーに似合わず、列車内部も綺麗であり、アンデスの村を眺めながら、
マチュピチュの麓のマチュピチュ村へ約4時間程度で到着する。
列車のランクも3つか4つ程に別れており、それぞれサービスも価格も違う。
一番安い列車は片道$30(それでもペルーでは高い買い物)位だが、
眺めの良い人気のビスタドーム(Vistadome)では片道約$75位する。
その代わり、軽食が出たり、車掌がペルーの郷土服を着たファッションショーが
車内で楽しめたりと、満足度も高い。

  但し全ての上り下り列車を合わせても1日12.3本と少なく、世界から集まる
ほとんどの個人客もツアー客もPERURAILを利用する為、当然席数も限られて来る。
だから、PERURAILのHPより、席が予約出来るようになっており(クレジット支払い)
旅行前に予約しておくのが普通である。
PERURAILを予約していないと、ペルーまで来てマチュピチュへ行けない
という事もあり、私も航空券より先にPERURAILを予約したぐらいだ。

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  Poroy駅に着いたのは6時過ぎで、駅には私が予約したExpeditionより
1本前に出発するVistadomeの乗客で既に賑やかだった。
『PERURAILには荷物は1人8kg以内という制限がある』と聞いていたので、
ゆうに8kgを超え、リュック一つで分散しようがなかった私は、
とにかく誤魔化そうと、持って来ていた服の全てを着込み、
完全に着膨れ状態となっていたが、大きい荷物の人も小さい荷物の人も、
皆思い思いの荷物を持っているようであったので、少し胸を撫で下ろし、
その客達が改札を問題無く通るのを見て、私は着膨れを一気に脱ぎ、
再びリュックサックに詰め込んだ。

  先に行くVistadomeに手を振って見送ると、駅は私と同じ列車の客であろう
2.3人を除き、ガランとした。
  出発時間まではまだ時間があったので、駅に荷物を置き、外に出ると、
構外に何時の間にか茶やパンを売る物売り達が集まっていた。
物売り達は駅構内には入れて貰え無いらしく、外柵に腕を絡ませ、客を呼んでいた。
その姿はまるで鉄の柵に入れられた囚人の様であった。
しかし、そういう所に旅の楽しさがある。
私は、客足が悪くて暇そうにしている爺さんから、チーズが挟まったカラカラのパンと
マテ茶を買った。給食のスープ入れの様な缶の中から湯気が立っていた。
冷えた高地の朝に、甘く温かいマテ茶が美味い。余りの美味さに
早くも帰ろうとしている爺さんを引き止め、もう一杯買ってしまった。

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  7時30分頃、定刻を10分程遅れて私の乗せた列車はマチュピチュへ向けて出発した。
  列車の席は向かい合う4列シートで、予約していた席番号の指定席だったが、
各々好きなように近い人と席交換をしていた。私は一人だったので、彼らに任せ、
ドイツ人のファミリーと同じ席の、薦められた窓側の席に座った。

  ExpeditionはVistadomeと同じ列車を使っているようで、
天井は半分ガラス仕様になっており、明るい列車で内部も綺麗であった。
  車内もとにかく陽気だった。私の車両は各個人客が多かったが、
その分、皆でお八つを交換したり、コカの葉を分けあったりと、
交流も多く、まるで冒険か遠足に行くかのようであった。

 列車はひたすらアンデスの田舎道をひた走っていた。
畑仕事をしている人達や、子供達が遊ぶ風景など、のんびりした風景が広がり、
奥には赤茶けた山々が、更にその奥に雪を抱いた高い山々が見え、
私も含め、各々がカメラを何度も何度も撮っていた。

 途中、スイッチバックを数回繰り返し、2時間程走ると、
インカの遺跡も残る途中駅オリャンタイタンポで客を更に乗せる。
ここまではクスコからバスでも行けるが、後は列車か歩くしかない。
この辺りから山はせり出し、青い列車は急峻な谷間を走っていく。
インカトレイルを歩く羨ましい姿も川向うに見えた。
秘境マチュピチュ村は近いのだ。

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┗⑥ マチュピチュ村でダウン ┛

 列車の到着時刻は、予定では4時間弱と聞いていたが、少し遅れていた。
上のガラス窓からは否応無しに照りつける太陽の光が差し込み、車内は暑かった。  
窓側だったせいか、足を伸ばせず、時間が経つに連れ、少しずつ辛くなってきた。

 昼前、マチュピチュ駅に着いた時には若干フラフラになっていた。
急ぎ足の旅の疲れが出たのか、重たいリュックが肩に食い込むが、
まずは荷物を置くホテルを探さなければならない。
 マチュピチュ村の主な宿は金額的に高い上に(平均レートは$80~$150)、
ほとんど予約をしないと部屋は取れないので、この街の宿だけは出発前から
当日行きあたりばったりで部屋が取れるかどうか、少し心配をしていたが、
駅前には観光客には無名の宿や、小さい宿だろう多くの客引きが来ていたので、
宿にはアブれないだろうと確信した私は、客引きを押しのけ、ダラダラと歩き出した。
 メインロードにはレストランや土産屋などが並んでおり、
西洋人の観光客が多い為か、洒落たオープンレストランが幾つもあったが、
昼は皆、マチュピチュ観光に上がる為か、お昼時の時間に関わらず、
レストランは駅前を除き、何処も数組がいるだけで、ガランとしていた。

 駅前で客引きをしていた男の1人が、客引きに失敗したのか、トボトボと
前を歩いているのを見て、声を掛けた。1泊40Solesから料金交渉をして
25Soles(約$9)にまけて貰い、部屋を見せて貰った。
隣の部屋にペルー人だろう観光客の子供達が来ていたので、
少々騒がしいようだったが、部屋はベッドを含め、8畳程の広さに
シャワーとトイレが付いており、特に問題も無かったので、
さっさとOKを出し、私はベッドに倒れ込んだ。
 予定では、マチュピチュ観光は1日目の午後と2日目の午前をマチュピチュへ
向かうはずであったが、雨も小振りで降り出しており、列車の中での疲れもあってか
熱も出してしまい、マチュピチュを目前にして、無念至極であった。
明日昼過ぎにはもう帰路の列車で再びクスコに帰るチケットを取っていたので、
1日目は体力を戻し、2日目に掛けるしかなかった。

 3時間ほど、ベッドで寝た後、私はタオルと水着を持って街を歩きだした。
 「マチュピチュ」の旧名は「アウグス オリエンテス」と言い、
ペルーの古語のケチュア語で、「温泉」という意味であり、街の一番高台には
温泉が涌き出ており、水着で入る温泉プールがある。
温泉好きの私は、当然このアウグスオリエンテスを愉しみにしていたので、
水着は日本から当然持って来ていた。温泉に入り、その後、マッサージ屋に行く。
それは、ペルーまでの高い航空券を除けば、唯一贅沢な瞬間である。

 温泉より駅へ向かうメインロードは坂道となっていて、レストランや土産屋などが
立ち並び、また、その裏にはウルバンバ川が流れている。
ある意味谷あいに位置した日本の温泉街に似ている。
 途中、アルモス広場(街の中心に位置する広場はアルモス広場)で
坐って珈琲を飲んでいると、国の選挙が近いせいか、何人もの人が選挙活動で
集まっており、演説や人集めの為に音楽演奏等をしていた。何処の国も変わらない
光景がこの小さな街にもあり、少しほほえましかった。

 温泉の入場料10Soles(約$3)。小さなプールが3・4つあり、
街のレストランと違い、既に大勢の観光客が入っていた。
 全体的に温かったせいか、私は出来るだけ熱めの湯を選び、日本以外で初めて
異国の温泉に身体を浸した。周りは緑に囲まれており、ジャングルの様な中で
野趣満点というところか。湯は鉄分を含み、少し茶色に濁ったお湯でよく温まった。
温泉では酒を飲む人や、腹の出た夫婦、イチャつくカップル等、子供連れ等、
客は多岐に渡り、日本でいう温泉マナーはほぼ無に等しかったが、
それもまた日本らしくなくて、ある意味面白かった。
 そのうち、日が傾いて来る頃には人が大勢押しかけて来たので、
芋洗い状態になったので、温泉を出て、帰り掛けにマッサージ屋に寄り、
明日の本命に備えた。遠回りとなったが、楽しみが延びたと切り替え寝た。

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┗⑦ マチュピチュ ┛

 朝の4時半。陽もまだ明けぬ早朝にホテルを出た。
気温は10度以下とかなり肌寒く、防寒着無しではいられない。
マチュピチュの入口へは麓のマチュピチュ村から出るバスで約20分登らなければ
ならない。マチュピチュの開門は朝6時となるが、まずは入口迄行くそのバスを
並ぶ事から朝は始まる。
 マチュピチュの意味は「老いた峰」という意味で、実際マチュピチュという
峰というか山があるのだが、その対角線上にワイナピチュという山がある。
ワイナピチュは「若い峰」という意味で、ワイナピチュは1日200人限定で
登る事が出来る。ワイナピチュからはマチュピチュが逆側から全体を望む事が
出来る為、これまた人気であり、インカ・トレイルを歩けなかった私は
せめてものワイナピチュに登りたいと思っていた。
 世界各国から同じ様な考えを持った人たちが何人も来ている訳だから、
当然、バスは朝一番を狙い、出来るだけ早く並ばないと行けない。
 勿論、ワイナピチュに登らなくても、霧が立ちこみ易い早朝は、
イメージにピッタリの幽玄なマチュピチュを見る事が出来る人気の時間である。

 バス停には既に200人以上の観光客が列をなしていた。
朝一番のバスの出発は5時半だから、まだ1時間近くもあるのに、凄まじい列である。
 私はバスのチケットを買い忘れていたので、途中で荷物だけその場に置いて
列を抜け、すぐ近くのチケットを買いに行った。チケット屋も10数人が並んでいて
中々買えず、途中でバスの列本体が動き出したので、荷物も含めかなり焦ったが、
私の持っていた一眼レフのニコンのカメラに興味を持って、最初に並んでいた時に
少し一緒に喋っていたフランス人のグループが、私の荷物を持って場所を取って
おいてくれたので、それには大助かりだった。
 バスが出発する頃には何人も何人も並び、700人以上の列が出来ていたので、
後から来た人達はワイナピチュはもう無理だろうと諦め、一旦ホテルに帰る人達も
いた程だから、この小さな街に物凄い数の観光客が一極集中で泊っている事は
解って貰えると思う。

 因みに私も後で知った事だが、現在1000近くあるユネスコ世界遺産の中で、
年間で最も観光客が訪れる場所がマチュピチュだというのだから、
今から思えば当然の数だったかもしれない。何度も行ける訳ではないから、
一見さんがほとんどだとすれば、天空都市マチュピチュというのはいかに魅力的で、
いつか行ってみたいと思う場所なのだろう。私もその一人なのだ。
 
 
 グネグネとした山道を登り、開門前に着く頃には周りも明るくなってきていたが、
予想通り、霧は立ち込めていた。フランス人グループの助けもあり、私も無事
ワイナピチュに登る権利を得て、ほっと胸をなでおろした。

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┗⑧ 天を仰ぎ見る ┛
 
 朝6時。マチュピチュ開門。
 入口でチケットとパスポートをチェックした後、いよいよマチュピチュに私は
足を踏み入れた。いよいよ来たか。そう思うと思わず顔も緩む。
 天空都市の光景を今すぐにでも見たいせいか、皆何処か足早に駈け出した。
 
 そのうちに先の方から、軽く感嘆の声が聞こえて来た。
  石段を登り、声のする方向へ。ようやく目の前の視界が開けた時、それは現れた。
 
 山から続く尾根が少し開けた場所、周囲は切り落ち、そしてまた山が這い上がる。
幽谷より勢いよく上っていた霧が、幻想的に遺跡を包み込み、そしてまた映し出す。
何度もTVで見た光景だが、やはり実物を見るのは違う。
 インカ帝国の象徴であり、スペイン軍からも難を逃れたその遺跡は、
静かに朝を迎えていた。 

 少し空が明るくなると霧が晴れ、街が空を指すように佇んでいた。
それが「天空都市」と呼ばれるに相応しい『マチュピチュ遺跡』であった。 

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 遺跡の観光は基本的に時計周りが基本とされており、皆、順に廻っていく。
良く見るマチュピチュの写真は「見張り台」という場所からであり、
遺跡が全体的に見渡せ、後方にはワイナピチュが聳え立つ。

 遺跡の近くには観光客用だろうが、日本でも最近お馴染のアルパカやリャマが
草を掻い摘んでいた。どちらも衣料に使われる毛糸が取れるモコモコした可愛い
奴らで、いかにも温かそうだった。因みにアルパカやリャマは食べる事も出来、
私はクスコでアルパカを食べたが、疲れた牛肉のようであった。

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 インカ帝国は何故、このような場所に街を造ったのか。他の敵から身を守る為?
太陽に近い場所だから?今ではまるで憶測でしかないが、とにかく普通に考えても
この技術力は凄いし、支配者がかなりの力を持っていたと言える。
 周囲の段々畑を保つ石段は何千段とも思える階数で、遥か数百m下に見える谷迄
続いており、その昔、数千人に近い人々がここで暮らしていたという事から、
食糧の確保の為に、その畑では遺跡内にある水路から、各畑に水を流していたので
あろう。水路には今も尚水が流れており、かなり機能的な都市国家だったと言える。

 石組は綺麗な曲線もあって、何とも美しく、そして不思議な街であった。
 日時計の場所では、数人のグループがガイドと共に石段に坐り、瞑想をしていた。

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 ワイナピチュ山へは50分弱で登る事が出来た。
 急な坂道と石段の繰り返し。日が高くなるにつれ、気温も上がりかなり暑かったが、
頂上に着くと、マチュピチュの眺めや周囲の高い山々の景色は最高だった。
風が通り、汗が引く。マチュピチュを遥か下に見下ろし、天を仰ぎ目を瞑った。
マチュピチュに来た。それだけで私はここに遥々来た最高の気持ちだった。 

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┗ あとがき ┛

ペルーで食べた物について余り書かなかったので、ここで少し紹介しよう。

◎アルパカ
先にも少し書いたが、味は疲れた牛肉のようであった。
臭いを消す為、ペルーの肉類はどれもブラックペッパー等の香辛料が強い。
日本ではTVのCM等で可愛い可愛いと言われており、あの動物を食べるなんて、
と思うかもしれないが、向こうでは普通にレストランメニューとして出てくる。
(写真はアルパカのビーフストロガノフ。写真で見ると美味そうに見えるのだが)

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◎鶏肉・ポテト・クスケーニャ(CUSQUEN~A)ビール
鶏肉はペルーでは最もポピュラーな食べ物だ。
だから価格も他の肉類や野菜類に比べると圧倒的に安い。
首都のリマで大型の食料品店にも寄ったが、鶏肉は色々な料理で食べられていた。
またアンデス地方と言えば、じゃが芋やコーンだろう。
アンデス地方は雨季と乾季に分かれているが、特に乾季に強いじゃが芋は
インカ帝国時代より更に昔から生活には欠かせない食べ物であった事は間違いない。

ペルーのビールと言えばクスケーニャビール。
お酒が好きな私は、ペルーにいた毎日このビールを夜に飲んでいた。
少し日本のビールよりキレは無いが、ベトナムのサイゴン程水っぽくなく、
美味い(何でも美味いと言うかもしれない)。
(写真は鶏肉にチーズを掛けオーブンで焼いたもの。
 かなりのデカさで、ポテトもデカい。ビールが進んだ。)

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◎クイ(テンジクネズミ)の丸焼き
アンデス地域の名物料理と言えばこれ。
ハムスターを2倍にしたぐらいの大きなネズミを丸焼きにして食べる。
丸焼きだから当然そのままの形で出てくる為、足の爪や歯もそのままだ。
価格はリャマやアルパカの倍以上はする食べ物で、マチュピチュから帰った後、
クスコのアルモス広場に面したちょっと高めのレストランで食べたとは言え、
150Soles($50)ぐらいしたので、私の中ではかなり清水の舞台から飛び降りた
気持であった。
味は北京ダックのようで、外側の焼かれた皮は美味い。
肉は北京ダックが肉は余り美味しくないと言われるように、
クイも同じようなものかもしれないが、頑張って食べた。
とにかく中々のボリュームである。

最初に丸焼きにした物をテーブルに運んでくれた後、
切り分けて持って来てくれる。

この時は、マチュピチュ帰りの同じ列車で知り合った日本人の男性と
夕食を食べたので、頼むなら今日しかないと思ってオーダーしたのだが、
彼は1片しか食べてくれず、私がほとんど食べるしかなかった。

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ペルーへは7泊9日の旅であった。

私にとって、今回の旅行はマチュピチュが全てであったので、
後半の事については、特に記してないが、
マチュピチュよりその後再びクスコに帰った後、毎週日曜日に市場が開催される
チンチェーロへ足を延ばし、更にその翌日にはクスコ周辺の『聖なる谷』と
呼ばれるサクサイワマン、ケンコー、タンボマチャイ等幾つかの遺跡を見て廻った。
どれもマチュピチュには遠く及ばずではあったが、インカ帝国の名残りを残し、
アンデスでの時間を過ごし、最終日リマを観光して帰路に着いた。

沢山の日数を休みを貰いペルーに行かしてくれた、社長はじめ、
私の休日中の仕事を請け負ってくれた会社の同僚達、
「無事に帰って来て下さいよ」と言ってくれた宿の方々に感謝致します。

有難うございました。

このブログ(旅行記)を読んで、いつかマチュピチュに行く方がいれば幸いです。

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